事業売却で最も重要なのは「人が動くこと」― 労働契約承継における設計と現場実務

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2025.09.04
  • 経営戦略/経営改革
  • M&A
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執筆者情報

  • 松浦 洋平

    松浦 洋平

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はじめに ― 事業売却の本質は「人を動かす設計」

M&Aにおける事業売却やカーブアウトでは、譲渡契約の締結や対価の合意だけではなく、特にDay1に事業が実際に動き出せるかどうかが問われる。この動き出しの成否は、買い手に引き渡される事業の価値、ひいては買い手企業全体の企業価値を大きく左右する。したがって、引き渡し設計こそが成否を分ける。

本稿は、「事業売却は“動かす責任”までを設計すること」をテーマにした以下のインサイト記事に続く第3弾として、「人の移動」という、最も重要かつ実務的な設計テーマに焦点を当てるものである。

制度としては会社分割や労働契約承継法が整備されている一方で、現場では「人が移籍しない」「Day1に業務が止まる」といった問題が後を絶たない。その根本原因の多くは、“誰を・どうやって・いつまでに移籍させ・移籍しない場合はどう補うか”という具体的な実務設計の欠如にある。
本稿では、労働契約の承継を「人を移籍させるための実務設計」として捉え直し、制度・組織・オペレーションを横断的に整理することで、事業売却を成功に導くための論点を提示する。

なお、本稿における用語の整理の使い分けについて補足する。
制度上は「労働契約承継法」に基づき「労働契約の承継」という表現が用いられるが、実務の現場では従業員が新しい会社へ移るプロセスを「移籍」と呼ぶことも一般的である。そのため本稿では、制度面の枠組みを指す場合には「承継」、従業員が新しい組織へ移る動きを指す場合は「移籍」という表現を用いることとする。

制度だけでは人は移籍しない ― 実務設計が欠けた典型リスク

2000年以降、事業譲渡における「会社分割」スキームが主流化した。労働契約承継法に基づき、対象従業員に対しては、労働組合との協議(第5条)や個別の書面通知(第7条)を適切に実施することで、法的には労働契約を包括的に承継できる制度的枠組みが整っている。
しかし、制度の仕組みが整っていることと人が実際に移籍するかはまったくの別問題である。実務設計が欠けている典型パターンは、次の3つである。

  1. 移籍対象の誤り:業務上必要な人材が、台帳ベースの所属で移管リストから漏れていた。
  2. 移籍同意の不取得:本人が移籍を拒否し、必要なポジションが空き、現場が稼働不能に陥った。
  3. 業務継続計画の欠落:後任育成や引き継ぎ手順が設計されず、属人化していた業務が遂行不能になった。

つまり、制度の選択だけではなく、こうしたリスクを事前に洗い出し、誰を移籍させるか・どう補うかまで明確にしたオペレーション設計が必要であり、それは人事のみならず、経営層・マネジメント層・現場が担う共同責任である。

たとえば、ある製造業のカーブアウト案件では、台帳上の移籍リストには含まれていなかったが、業務上不可欠な専門職3名が存在していた。現場ヒアリングと業務分解によって早期に発見し、買い手の組織計画と突き合わせて処遇・役割を再設計。交渉と合意形成を経てDay1から全員が移籍し、稼働できる状態を実現し、生産ロスのリスクを回避した事例があった。

もっとも、こうした実務設計とあわせて、制度面での適法性を担保する観点も欠かせない。弁護士は労働契約の承継に関し、法的妥当性を担保する重要な役割を果たしている。

Day1を止めないための4つの重点領域

弁護士が法的妥当性を担保する一方で、業務が動くかどうかは企業側の設計次第である。Day1に業務を止めないためには、制度対応にとどまらず、法対応とあわせて現場稼働を確保する実務設計が欠かせない。その中でも特に優先度の高い領域は次の4つである。

  1. 業務単位での人材棚卸しと属人性の有無の確認
    「誰がどの業務を実質的に担っているか」を把握できていないと必要人材の漏れや過剰配置が生じやすいため、マネジメント層と現場責任者が業務実態を洗い出し、人事が移籍対象者の情報を整理することが重要である。
  2. 従業員への丁寧な説明と将来への不安の払拭
    処遇やキャリアが不透明なままでは移籍拒否が起こりやすいため、マネジメント層が明確なメッセージを発信し、人事が説明資料やFAQを整備することで心理的ハードルを下げ、合意率を高める必要がある。
  3. 必要人材が移籍しなかった場合の代替要員・TSAの設計
    必要人材が移籍しないと業務が止まるリスクが高いため、PMOが全体スケジュールと整合させつつ、人事や調達部門が代替要員確保やTSA条件を事前に設計しておくことが不可欠である。
  4. 買い手との説明分担やタイミング調整
    説明の一貫性を欠くと従業員が混乱し移籍交渉が長期化するため、PMOが全体の役割分担を整理し、マネジメント層同士で発信の順序と内容を合意することが求められる。

これら4つは、マネジメント層が方向性を示し、人事が制度・人材面の設計を行い、PMOが全体統合と進捗管理を担う三位一体の推進が重要である。制度と現場の間にある設計の空白を埋めることが、現場を止めないための最重要論点と言えよう。

人と業務を見極める ― 従業員マッピングとリテンション戦略

労働契約承継における多くの失敗は、事業単位の一括移籍リストを過信し、事業横断で動く人材や名義上は異なる事業に属しているキーマンを見落としてしまうことから始まる。

そこで必要なのが、業務ベースでの人材マッピングである。たとえば以下のプロセスで「従業員マッピング」を作成することで、キーマンの見落としを防ぐ。

  1. 業務ごとにWBSを作成し、必要スキル・頻度・引き継ぎ難易度を評価
  2. 各業務における「実質キーマン」を可視化
  3. 本人の移籍意向や、居住地・家庭環境などの個別事情を踏まえた配置案を検討
  4. 代替不可能な場合は、早期に後任育成やTSA活用を設計

このプロセスは人事部門だけでは完結しない。マネジメント層・現場マネージャー、買い手とも連携し、横断的なチームで進めることが不可欠である。
実際に事前にこのプロセスを実施した案件では、移籍合意率が100%に達し、TSA期間の短縮やDay1業務停止リスクの低減につながったという結果も出ている。

さらに、属人業務を抱える人材の移籍が不確実な場合には、リテンション確保が重要である。多くのクライアントで共通していたのは、「納得感」があるかどうかで人は移るか否かが決まるということだ。具体的には以下のようなアクションを通じて、双方向のコミュニケーションを取ることが必要である。

  • 経営層による個別1on1や手紙での意義説明
  • 買い手と連携したキャリアパスや評価制度の提示
  • 単なる条件提示ではなく、「あなたが必要とされている」というメッセージの発信
  • リテンションボーナスよりも、信頼関係と情報開示を重視する取り組み

実際の事例として、あるライフサイエンス企業の案件では、移籍拒否を表明していた専門職3名に対し、経営層が1on1を設定し、買い手とともに将来像・評価制度を提示した。その結果全員が移籍に同意し、同時に後任育成計画も推進することで、属人化リスクを段階的に解消することができた。

すべての従業員が移籍しなくても「業務が止まらない仕組み」をつくる

すべての従業員が移籍に同意するとは限らない。そのため、「誰かが移籍しないと業務が止まる可能性があるのか」「代替手段はあるのか」を事前に明確にしておくことが設計の根幹である。
代表的な補完策は以下の通りである。

  • TSAによる短期的な人材支援契約
  • BPOや外部ベンダーの暫定登用
  • 属人業務のプロセス化・ドキュメント化

加えて、場合によっては売却元と買い手が一時的に共同で業務を担う運用体制(例:段階的な引き継ぎやデュアル担当体制)を構築することも有効である。

特に属人業務を抱える中堅社員の対応は、リスク管理ではなく構造補完としてプロジェクト計画に組み込む必要がある。
実際にあるIT業界の案件では、事前に代替要員プールを構築。移籍拒否者が発生した際も即時引き継ぎが可能となり、顧客向けサービスを一度も止めることなく提供し続け、TSA終了までサービス品質基準(SLA)をすべて満たすことができた。

さらに、従業員説明においても「制度説明」ではなく「人生説明」が求められる。新勤務先でのローン審査、住宅手当の継続、配偶者の扶養や子どもの学費、介護や時短勤務制度など、従業員の生活に直結する不安に応える説明が欠かせない。FAQ整備に加え、個別相談会や専用窓口を用意し、安心して相談できる環境を整備することが望ましい。

おわりに ― アビームコンサルティングがこだわる“人が動く設計”

アビームコンサルティングでは、企業に対して事前に決めた型やフレームワークを一方的に押し付けるのではなく、現場の実態に入り込み、制度と日常業務の間にある“隙間”をとも緒に埋める伴走型の支援を行っている。事業売却プロジェクトの現場では、制度上は承継可能でも、日々の業務を動かすための設計が抜け落ちていることが多い。我々はこの設計の空白を埋めることに徹底的にこだわっている。

具体的には、弁護士との制度設計、従業員マッピング、リテンション戦略、Q&Aや処遇比較表の整備、代替要員や業務プロセスの設計、買い手との説明分担調整など、多岐にわたる論点を現場と一体で解きほぐしていく。

繰り返しになるが「制度的に承継されること」と「実際に人が移籍し業務が動くこと」は決して同義ではない。だからこそ我々は、“引き渡した瞬間から事業が動く”状態を企業とともに実現するべく、制度対応・業務設計・人材移籍をつなぐ実務領域の支援を今後も推進していく。

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