本稿は、インサイト記事「事業売却は売却“後”が勝負─企業の未来価値を決める設計フェーズの真実」の続編・補足にあたる内容である。前稿で述べた「構造的非対称性を乗り越えるための設計」を、実際に事業を買い手に渡しきれる状態に落とし込むための実務論・責任設計について整理している。
本稿は、インサイト記事「事業売却は売却“後”が勝負─企業の未来価値を決める設計フェーズの真実」の続編・補足にあたる内容である。前稿で述べた「構造的非対称性を乗り越えるための設計」を、実際に事業を買い手に渡しきれる状態に落とし込むための実務論・責任設計について整理している。
松浦 洋平
M&Aにおける事業売却やカーブアウトでは、「Day1(買い手が実質的に事業のオーナーとなる初日)」に混乱が起きることが珍しくない。だが、その原因が常に買い手側にあるとは限らない。実は、売り手側が“引き渡す責任”を果たせていないケースが多い。
売却判断は経営層が主導する戦略的意思決定である。一方で、実務、特に人・契約・情報の移管や業務の橋渡しは、現場任せになりがちだ。しかも、ガンジャンピング規制(M&A取引の完了前に、当事会社間で行われる一部行為を禁止する規制)により買い手とのすり合わせも制限される。
ある製造業の案件では、買い手に異動予定だった経理担当者が、異動の理由やタイミングに納得できず移籍に同意しなかった。譲渡対象となる人材の選定が現場で都度判断されていたため、本人への説明準備や交渉の設計が間に合わず、結果としてDay1に財務処理を担う人材が不在となった。
売却とは「契約の終結」ではない。「運用可能な状態で渡すこと」までが、戦略判断を下した経営層の責任である。
売り手の準備不足で最も多いのは、「譲渡スコープ(何を売るのか)」が曖昧なまま実務が進行してしまうケースだ。帳簿や契約上のスコープと、実際の業務現場の実態が乖離していることは、決して珍しくない。通信機器メーカーの案件では、譲渡対象とされた顧客契約が他事業と密接に結びついており、買い手が分離できず納品停止に陥った。
スコープの整合は、以下の3点で確認される必要がある。
この整合を現場レベルで検証するためには、「帳簿・契約・実務」それぞれに責任を持つ部門を巻き込んだ三位一体のレビュー体制が必要となる。たとえば、会計スコープは財務部門、契約スコープは法務や経営企画、業務スコープは事業部門が担い、各部門が同一の譲渡リストに対して、それぞれの視点で「本当に独立して移せるか」をレビューする仕組みを設計する。クロージングに向けてスコープの確定・精緻化が進む中で、売り手主導でフェーズごとにレビューと再検証のタイミングを設けることが、実務上の整合を担保する鍵となる。
Day1の混乱で最も致命的なのは、「必要な人材がいない」という事態である。事業は人が動かす。どれだけ計画やTSA(Transition Service Agreement:M&A後、譲渡企業が譲受企業に対して、一定期間、特定のサービスや業務を継続して提供する際の契約)を整備しても、現場に人がいなければ業務は動かない。
以下などが典型的な失敗パターンである。
IT企業の事例では、システム保守担当者が承継されず、TSAでもカバーできず業務が停止した。
人材移管は現場任せにせず、経営として以下の3点を設計すべきである。
スコープも人も、契約やシステムも、「一つひとつ個別に渡した」はずなのに、Day1に業務が立ち上がらない。こうした混乱は、事業全体としてどう運営されるのかという視点が欠けたまま、個別の引き渡しを進めてしまうことに起因する。
本来、スコープや人材、システムの整合を貫くのが、TOM(Target Operating Model)とTSA(Transition Service Agreement)である。TOMは、買い手が引き継ぐ事業の組織・業務プロセス・ITなどの「ありたい姿」を描いた設計図である。TSAは、その姿に至るまでの暫定運用を定義する契約である。
この2つは連動して設計されるべきものだが、現場では「TOMが理念的すぎて実行設計に落ちていない」「TSAが場当たり的に個別補填される」といった分断がよく起きる。理想的には、TOMが「Day1以降、誰が・何を・どの業務単位で担うか」を具体的に定義し、それを前提に「Day1時点で未整備の項目をどうTSAで補完するか」を設計することが望ましい。つまり、業務・人材・システム・契約などの構成要素を、「TOMで理想的に配置」し「TSAで暫定手当を付与」という2層で設計し、全体で引き渡し可能な状態を構成する必要がある。
製造業の案件では、「製品別収支管理体制の構築」とTOMで謳われていたものの、Day1時点では管理会計も販社との連携も準備されておらず、買い手が売上計上できず業務停止となった。
TOMとTSAは、買い手の方針やIT環境と整合させながら、売り手が交渉・設計・合意形成まで一体で担う“引き渡しのためのインフラ”である。
IT資産や契約の名義が移せず、業務が停止する事例も多い。
小売業の案件では、共通クラウド基盤にあった顧客管理システムが売り手企業名義のライセンスで稼働していたため、譲渡できなかったケースもある。クロージング直前に移行できないことが発覚し、やむなく旧環境で暫定稼働したものの、TSAの取り決めが不十分で顧客へのポイント付与ができず、クレームが発生した。
このようなリスクを防ぐには以下の対応が欠かせない。業務インフラは、渡せるかどうかまで見極める必要がある。
こうした契約やライセンスの名義、システム環境など、事前に移行可否を見極めなかったことで生じる問題は、いずれも「引き渡し手順の設計不足」に起因している。単発の資産や契約の話に見えても、全体としてのバトンパス設計が欠けていれば、Day1の業務停止リスクは避けられない。
引き渡し手順は、経営責任として設計・遂行すべき対象である。カーブアウトは資産を売るだけでなく、運営のバトンを渡す行為である。そのバトンが落ちないように設計されているかが問われる。
製薬会社の事例では、品質管理の手順書(SOP)が紙保管されており、引き渡しリストにも入っていなかったため、買い手が自社で再整備するまで出荷が停止した。
このような事態を避けるには、以下の3層構造で引き渡し設計を行うことが重要である。
現場任せではなく、「経営責任の設計対象」として、引き渡し体制を構築すべきである。
従業員、顧客、取引先、社内関係者への説明が後手に回ると、混乱を招くだけでなく、売り手企業の信用そのものを損なう。
説明設計におけるポイントは以下の通りである。
これら対象者別の説明に加え、買い手と共同で説明を行う場合には、役割分担や発信タイミングを事前に合意しておくことが不可欠である。
説明がない状態でDay1を迎えることは、オペレーションの問題ではなく、経営の信頼に関わる設計不備である。
売却プロジェクトのゴールは、契約締結でもクロージングでもない。Day1のその瞬間に、事業が確実に立ち上がることである。それを担保することが、売却という経営判断に伴う責任と言えよう。実際、譲渡後のトラブルにより買い手の業績が悪化した場合、「売った側の設計力・誠実性」に疑問が向けられ、次の資本戦略にも影響を及ぼす。
アビームコンサルティングでは、カーブアウトにおけるセルサイド支援において、以下の内容を一貫で支援している。
我々は、「事業の引き渡しと同時に価値が立ち上がる」ことを前提に、構想・設計・交渉・実行・内製化まで、単なる助言ではなく、現場に深く入り込み、ともに動く姿勢を重視している。
売却はゴールではなく、新たな価値創造のスタートである。その瞬間を動かせる設計力こそが、売り手企業の信頼と未来を支えるのだ。
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