少子高齢化による労働力不足やDX推進の加速により、業務の抜本的な見直しが求められており、BPR(Business Process Re-engineering)が再注目されている。BPRは生産性の向上だけでなく、従業員満足度や意思決定の迅速化にも寄与し、企業競争力の強化に直結する。
本インサイトでは、業界特性によりBPRの導入難易度の高いクリエイティブ業界に焦点を当て、BPR成功に向けた行動経済学を用いたアプローチについて解説する。
少子高齢化による労働力不足やDX推進の加速により、業務の抜本的な見直しが求められており、BPR(Business Process Re-engineering)が再注目されている。BPRは生産性の向上だけでなく、従業員満足度や意思決定の迅速化にも寄与し、企業競争力の強化に直結する。
本インサイトでは、業界特性によりBPRの導入難易度の高いクリエイティブ業界に焦点を当て、BPR成功に向けた行動経済学を用いたアプローチについて解説する。
前迫 篤男
クリエイティブ業界、特に筆者が担当しているマスメディアを中心とした領域では、長年にわたり、職人芸や属人的な判断に依存した業務運営が主流となっている。企画・制作・編集・発信のプロセスにおいては、個人の経験や勘に支えられ、暗黙知が組織の中核を成してきた。
ところが、クリエイティブ業界においても、デジタル技術の進展、消費者行動の変化、広告収益モデルの転換など、構造的な変化が急速に進行しており、従来の業務構造では持続的な競争優位を築くことが困難になってきていると言える。また、従来の業務プロセスは紙媒体や放送中心の時代に最適化されたものであり、現代のマルチチャネル・即時性・パーソナライズドな情報流通、AI・デジタル技術の活用、グローバル対応などに完全には対応しきれていないのが現状である。
このような背景において、業務の可視化・標準化・最適化を通じて、組織全体の生産性と創造性を両立させるBPR(Business Process Re-engineering)は単なる業務改善ではなく、業務の目的・構造・手段を根本から見直す「抜本的な変革手法」として再注目されている。特に、クリエイティブ業界のような属人性が高く、プロジェクト単位で動く非定型的な業務構造においては、BPRの導入難易度が高い一方で、成功すれば劇的な成果をもたらす可能性がある。
考察の前に、業界を担うクリエイティブ人材の特徴を整理する。
クリエイティブ人材とは、一義的に定義しづらい概念であり、文脈によって意味が変わるが、ここではメディアやエンタテインメント業界に関わるテレビ番組、ウェブコンテンツ、広告、映像、アニメ、ゲームなどの制作物を生み出す人材を主に指す。具体的にはテレビ制作、アートディレクター、コピーライター、映像編集者、デザイナーなどを想定している。
図1は、心理学(ビッグファイブ理論)、脳科学(右脳優位・デフォルトモードネットワーク)、認知科学(拡散的思考・自己効力感)、組織行動学(曖昧さ耐性・内発的動機)などの観点から、クリエイティブ人材の特徴を整理したものである。
心理学のビッグファイブ理論では、創造性と最も関連する性格特性は「開放性(Openness to Experience)」とされており、知的好奇心、想像力、芸術的感性、新しい経験への積極性などを含む。また、創造的な人は「拡散的思考(Divergent Thinking)」に優れ、1つの問いに対して多様な解決策を生み出す能力を持つ。これは創造性テストで測定され、流暢性と独創性で評価される。さらに、自己効力感(Self-Efficacy)が高く、自分の得意分野において「自分はできる」という信念を持っている。これは創造的な成果を生み出す原動力となる。さらに曖昧さへの耐性も高く、不確実性や明確な答えがない状況に対しても不安を感じず、むしろ楽しむ傾向がある。脳科学的には、右脳の活動が活発で、感情や直感に敏感である傾向があり、芸術的な表現や新しいアイデアの着想に寄与するとされる。
これらより、クリエイティブな人材は「自分はできる」という信念を持ち、感性をベースに多様な発想を生み出し、新しい経験に積極的な特性を持っていると言える。
BPRは、業務の標準化・可視化・効率化を目的とした改革手法であり、組織全体の生産性向上を目指すものである。一方、クリエイティブ人材は、前述のように自由な発想や感性的な判断を重視する特性を持っており、以下のような点でBPR導入の障壁になる可能性がある(図2)。
BPRでは要所において業務の標準化が求められるが、クリエイティブ人材は非定型で即興的な業務スタイルを好む。業務を「型」にはめることは、クリエイティブ人材の創造性を制限し、抵抗感を生む要因となりえる。
BPRではKPIや数値による業務評価が重視されるが、クリエイティブ人材の成果は定性的・感性的であることが多く、数値化された評価に納得しづらい傾向があると言える。これにより、モチベーションの低下や不信感につながる可能性がある。
クリエイティブ人材は、暗黙知や直感に基づいて業務を遂行することが多く、業務の「見える化」や手順化は、思考プロセスを制限するものとして受け取られる可能性がある。形式知への変換には時間と心理的負担が伴う。
BPRでは段階的な導入と定着支援が重要であるものの、クリエイティブ人材はそれよりも曖昧さや即興性を重視する傾向があり、マニュアル的な支援や段階的な変化を煩わしく感じることがある。
BPRは最終的には組織全体での統一的な運用を目指すものだが、クリエイティブ人材は自律性を重視し、個別最適を優先する傾向がある。全体最適のための一律運用は、彼らの自由や裁量を奪うものとして反発を招く可能性がある。
これらの理由により、クリエイティブ人材に対してBPRを導入するには、彼らの特性を理解し、心理的安全性や納得感を重視した設計が不可欠である。しかしながら、教科書的で画一的な設計では、行動に移してもらうことすら容易ではなく、その手前の納得の壁が立ちはだかることが多い。そこで個人の内面や性格、動機づけに焦点を当て、深い理解を得る心理学的なアプローチを採る場合もあるが、実際の行動を変えるためには、個別対応や時間を要することが多く、組織的な施策としては汎用性に欠けるケースもある。
一方、行動経済学は「人は必ずしも合理的に行動しない」という前提に立ち、感情・直感・習慣などを活用して、環境や選択肢の設計によって行動を自然に誘導することができるものである。したがって、自由や自律性を重視し、外からの強制に敏感なクリエイティブ人材にとって、心理的抵抗が少なく、むしろ創造性を刺激する要因にもなりうる。そこで、クリエイティブ人材がBPRに前向きに取り組みやすくなるような環境や仕掛けを設計することで、自然とBPRに取り組んでもらえるようなアプローチを模索する。
行動経済学とは、従来の経済学が前提としていた「人は常に合理的に判断・行動する」という仮定に対し、実際の人間の心理や行動の“非合理性”を考慮した意思決定を分析する学問分野であり、心理学や社会学などの知見を取り入れながら、現実の人間がどのように選択し、行動するかを明らかにするものである。この分野では、たとえば「ナッジ理論(そっと背中を押すような設計)」「損失回避バイアス(損を避けたい心理)」「アンカリング効果(最初の情報に引きずられる傾向)」など、人間の行動に影響を与える“癖”や“偏り”を活用して、望ましい行動を自然に促す方法が研究されている(図3)。
前述のとおり、BPRは業務の標準化・効率化・再設計を目的とする一方で、クリエイティブ人材にとっては「変化への抵抗」や「納得感の欠如」が障壁になりやすい。“自然”に望ましい方向へ導く設計が可能になる行動経済学を活用することで、以下のような効果が期待できる。
ナッジや選択のフレーミングなどを活用することにより、業務改革に対する「なんとなく嫌だ」「今のままでいい」という感情的な抵抗を和らげる。例えば、新しい制作フロー導入時に、「旧フローを廃止する」ではなく、「より自由度の高い制作スタイルを選択できるようになる」と背中を押すことで、強制感を減らし、自然な受け入れを促す。
アンカリングなどにより、変化の必要性や効果を実感しやすくなる。例えば、「従来のCM制作が6週間から3週間で完了できる」と具体的な試算を提示することで、「6週間→3週間」という差が印象に残り、改革の効果がシャープになり、曖昧さが薄らぐ。
即時報酬や損失回避バイアスなどにより、改革を一時的なものにせず、継続的な行動につなげる。例えば、「制作時間短縮による余剰時間の活用事例」などイメージしやすい成果(報酬)提示することで、改革のメリットが実感しやすくなる。また、新旧ワークフローの差分と制作クオリティの差分が理論的に説明できるのであれば、損失回避の心理が働き、行動の継続につながる。
続いて、一般的なBPRのアプローチとして、以下の5ステップを示す。特に自律性や創造性を重視するクリエイティブ人材に対して、行動経済学の理論を各ステップに取り入れるアプローチの例をBPRのポイントとともに例示する(図4)。
現行業務の棚卸しを行う。属人性が高い業務でも、プロジェクトの流れ・関係者・成果物・意思決定ポイントなどを見える化・チャート化することで、業務の全体像を把握できる。この際、どうしても成果と工数が見合わない業務については、該当業務だけでなくそれに関わる周辺業務からの視点も取り入れて、総合的に判断することが大切である。工数調査では、ヒアリングと現場観察が重要であり、業務の「暗黙知」を「形式知」に変換する作業が求められる。ここでは例えばナッジ理論を活用し、工数調査をヒアリングのみにとどめるのではなく、まずは対象者を観察したのちに対象者の行動を自ら説明してもらうことで自然と自分事化され、選択の自由を保ちつつ望ましい行動へと誘導することができるかもしれない。
次に、業務の非効率性や重複、属人化のタスク・ボトルネックなどを洗い出す。これらをECRS(排除・結合・並び替え・簡素化)などのフレームワークで整理する。ここでは例えばアンカリング効果を用いて、定性と定量のKPIを数値化し、現状と並列比較することで、感覚的な納得や数値的な裏付けの現状との差分を意識させることができる。
業務の目的に立ち返り、理想的な業務フローを設計する。ここでは、ITツールの導入や組織再編も視野に入れるが、重要なのは「業務起点」で考えること。例えば、制作進行管理をクラウドベースのツールに統合することで、情報共有と進捗管理を一元化するなど、業務の本質的な課題解決を目指す。ここでは例えば選択過多のパラドックスに配慮し、創造性を損なわないことを前提とした定型業務と非定型業務それぞれにおいて、最低限のガイドラインと絞られた選択肢を提示することで、簡便な意思決定をすることができる。
設計した業務モデルを一度ではなく実行しやすいものから段階的に実装する。この際、現場の理解と協力が不可欠であり、教育・トレーニング・フィードバックループの設計が重要となる。特に、属人性の高い業務では「なぜ変えるのか」「変えた結果どうなっているのか」を丹念に問い続けることが必要である。ここでは例えば即時報酬の考え方を取り入れ、導入初期に短期的な成果を体感させ続ける(クイックウィン)ことで、継続的な取り組みへの意欲を高めることができる。
導入後は、KPIによる効果測定とPDCAサイクルによる改善を継続する。KPIは、業務時間短縮・エラー率低下・制作物クオリティ向上・顧客満足度向上など、定量・定性の両面から設定する。ここでは例えば選択肢のフレーミングを活用し、改善提案を複数のスタイルで提示し、各自がチョイスしてもらうことで、自律性を尊重しながら統一運用への心理的抵抗を軽減することができる。
なお、これらの施策の前提として、BPRの目的を単なる効率化ではなく価値創造と定義することや現場の声の傾聴を最優先とすること、業務効率化が創造性を阻害しないように余白や裁量を残す設計をすることなど、従業員ファーストの指針を示し、ことあるごとに発信し続けることも重要であることを最後に付け加えておく。
クリエイティブ業界におけるBPRの成功には、業務の合理化だけでなく、心理的な納得感と自律性を尊重した設計が不可欠である。行動経済学の知見を活用することで、属人的で感性的な業務スタイルに自然な変革を促し、抵抗感を最小限に抑えながら持続的な改善を実現することができる。
アビームコンサルティングでは、こうした業界特性に即したBPR支援を多数手がけており、行動経済学といった科学的な手法を取り入れた実践的なアプローチにも強みがある。本インサイトが、クリエイティブ業界における真のBPRの実現に向けた処方箋になれば幸いである。
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