技術革新進む―ライフサイエンス領域

インサイト
2025.09.01
  • 医療・健康・福祉
  • ヘルスケア
GettyImages-915315502

ライフサイエンス・ヘルスケア産業は医療の効率化や予防医療の推進を通じ、健康寿命の延伸や医療・社会保障制度の持続性確保に向けた重要な役割を担っている。世界ではAI(人工知能)、バイオテクノロジー、デジタルヘルスの進展により、製薬や医療の在り方が大きく変化している。日本でも個別化医療やリアルワールドデータ(RWD)の活用、新たな事業モデルの台頭など、産業構造の変革が進みつつある。持続可能な社会の実現に向け、ライフサイエンス・ヘルスケア産業の可能性が問われている。

※日刊工業新聞 2025/8/20付16面「ライフサイエンス特集」に寄稿したもの

執筆者情報

  • 鈴木 将史

    Director

日本のライフサイエンス・ヘルスケア産業の現状

日本では少子高齢化が急速に進み、2040年には高齢化率が35%を超えると推計されている。医療や介護、福祉にかかる社会保障費は増加の一途をたどり、医療提供体制の効率化や生産性向上が課題となっている。日本のライフサイエンス・ヘルスケア産業は世界有数の規模を誇るが、研究開発投資やデジタル化、国際展開の面では欧米や中国に比べて遅れが指摘されてきた。
一方、産業全体は近年、従来の効率化や部分的なデジタル化の段階を超え、AIやバイオテクノロジー、ビッグデータを活用する「技術導入の第二段階」に入っているとされる。これにより研究開発の手法や事業モデルが変化しつつある。高齢社会への対応と国際協力の強化に向けて、この時流に的確に適応することが求められている(図1) 。

図1 政府が目指す姿 予防・健康管理への重点化

革新的な技術の広がり

AIや機械学習は既に創薬における化合物探索や臨床試験設計、画像診断や疾患予測に活用が広がっており、研究開発の期間短縮やコスト削減に寄与している。
ビッグデータやRWDは電子カルテやレセプト、ウェアラブル端末から得られる情報を活用し、個別化医療や薬剤効果の検証、疾患予測モデルの開発に利用されている。海外ではデータ基盤の整備が進み、薬事承認の迅速化や治療効果の可視化が進展しており、日本でも同様の取り組みが広がりつつある。
デジタルセラピューティクス(DTx)やウェアラブル機器は、生活習慣病やメンタルヘルス領域を中心に導入が進んでいる。行動変容を促す治療アプリや、バイタルデータをリアルタイムに収集するデバイスの臨床現場での活用事例も確認されている。
バイオテクノロジーの分野では細胞治療や遺伝子編集、メッセンジャーRNA(mRNA)技術の進展により、がんや希少疾患に対する新たな治療法の開発が国内外で活発化している(図2)。

図2 ライフサイエンス・ヘルスケア業界のトレンド

産業構造の変化

技術進展によってライフサイエンス企業は自社内の研究開発に依存せず、バイオベンチャーやAI創薬企業との提携を加速させている。医療機関、IT企業、大学、スタートアップが連携し、臨床現場発のソリューション開発も活発化している。こうした動きは、従来の垂直統合型の産業構造から分業と協業を前提としたオープンなエコシステムへの移行を促している。
事業モデルの面でも変化が進む。薬剤販売中心の収益構造から、デジタル技術を活用したサブスクリプション型の医療支援サービスや予防・予測を重視したモデルへの転換が見られる。生活習慣病や慢性疾患領域では治療に加え、重症化予防や健康維持を目的とした継続的な介入の重要性が高まっており、製薬・医療・ITの各プレイヤーが連携し、新たな価値を創出する取り組みが広がっている。
こうした動きは、患者の生活やニーズを起点とした「患者中心の医療モデル」の構築にもつながっている。米国などでは、AI創薬やRWDの利活用、遠隔診療の普及が進み、規制・制度面でも迅速な承認プロセスやデータ連携基盤の整備が進展している。これに対し、日本や欧州では、法制度や診療報酬の制約が導入のスピードを制限する場面もあるが、近年は治験のデジタル化や医療データ基盤の整備などにより改善が進んでいる。
今後は創薬から診療、予防・予測までをつなぐ産業構造の再編が進み、「患者中心の医療モデル」が一層拡大すると見込まれる。特に高齢化社会では発症後の治療だけでなく、発症前の予防や重症化防止の取り組みが経済的・社会的に重要性を増し、ライフサイエンス産業の成長と医療制度の持続性の両立に寄与することが期待されている(図3)。

図3 ライフサイエンス・ヘルスケア産業構造の変化

課題と対応の動き

こうした技術導入が進む一方、依然として課題も残されている。データプライバシーやセキュリティへの懸念は根強く、医療情報の管理には高い透明性と厳格なガバナンスが求められる。医療現場ではITリテラシーの格差や導入コストが障壁となっており、普及に不可欠な制度や環境面での整備が進められている。
AIの医療活用ではアルゴリズムの透明性や倫理的配慮、診療における責任の所在や説明責任の明確化が議論されている。こうした状況を踏まえ、国内外で技術開発と制度整備の両面から対応が進められている。

最後に

ライフサイエンス・ヘルスケア業界における変化は単なる業務効率化にとどまらず、医療の提供方法、研究開発のプロセス、そして産業構造や価値創出の在り方までも根本から変革しつつある。AI創薬やRWD活用は、研究開発の成功率とスピードを高め、個別化医療の実現を支えている。オンライン診療やDTxの普及は、医療の場を医療機関から生活空間へと広げ、「患者中心の医療モデル」への移行を促している。
こうした変化は製薬企業、医療機関、IT企業がそれぞれの専門性を活かしながら連携する新たなエコシステムの形成を後押ししている。従来の垂直統合型モデルから分業と連携によるオープンな産業構造への転換が進むなか、ライフサイエンス・ヘルスケア分野は持続可能な社会の実現に向けた中核的な産業として、ますますその重要性を増している。

以上


Contact

相談やお問い合わせはこちらへ